以前怖い映像を見つけたということでこれをUPしました。
マルサリス兄弟をフロントに迎えたV.S.O.P.Ⅱです。
ここでのウイントンは凄いと思います。
私はこういうジャズの格好良さに惚れてジャズに嵌って行ったと書きました。
上の演奏の元になるものを見つけました。1967年のライブ。
映像があるとよく分かりますね。
これも怖い映像ですよね。この緊張感。
マイルス・クインテットのジャズ最高峰。
1967年には行き着くところまで行っちゃってたわけです。
マイルスのフレージングはウイントンにも確実に影響を与えてますね。
トニーのドラミングはここでも自由奔放。
ウェイン・ショーターはフリー・ジャズの領域にまで行っています。
ウェインを舞台袖から見守るマイルス。
このマイルスの目がこの演奏を生み出す根源なのです。
フリー・ジャズをやるというのではなく、
演奏を突き詰めていくとフリー・ジャズにまで至るというのが、
マイルスのフリー・ジャズ感なのだろうと思います。
しかも本人というよりグループとしてのフリー。
菊地成孔さんがこれに憧れるのはよく分かります。
でもこれにdub(編集目線)を加えたくらいでどうにかなる世界とは思えません。
ウイントンもここを超えようと正攻法で挑んだんですけれど・・・。
新伝承派(ニュー・トラディショナリスツ)も次々参戦したんですが・・・。
この路線において最早先はなかったという・・・。
ジャズを葬ってしまったのがウイントンという話を耳にしたことがあります。
分かる気がしますね。
日本では人気がなかったけれどこの時期M-BASEもトライしています。
今もM-BASEの流れは途絶えておらず、
こちらにはまだかすかに光が見えている気がします。
時代を戻して、1954年の《ウォーキン》をUPします。
ここからひとつ前の映像、1967年まで。
13年で行き着くところまで行っちゃったわけですよね。
マイルス恐るべし。
私が好きなのはこれ。
1967年、アルバム『ソーサラー』から《プリンス・オブ・ダークネス》。
何なんでしょ?この格好良さ。
でも更にこの先を考えてたんですよね。マイルスさん!
ということで1968年のこれ。
アルバム『マイルス・イン・ザ・スカイ』から《スタッフ》。
これはジャズ・ロックではなくファンクと理解すべきでしょう。
中山康樹さんも「ジャズ・ヒップホップ・マイルス」の中で、
70年代マイルスをファンクと捉え直すと書いていました。
ジャズを突き詰めたマイルスがファンクを導入。
ファンクは当時のブラックミュージックのメインストリームです。
最初はスタジオ録音ということもあってクールな演奏。
一挙に飛びます。わずか7年後ですよ。1975年の大阪ライブ。
ファンク路線では、《ウォーキン》の時の13年の約半分でここまで。
行き着くところまで行っちゃったんですよね。やっぱり。
バンドとしてのフリーはここにもあります。
この後引退するのは分かる気がします。
私はこれを聴いて幸か不幸かジャズに嵌ることに。
マイルス引退(休養?)中、フュージョンの嵐が吹き荒れ、
反動でメインストリーム回帰という現象が起こるわけです。
最初の映像のV.S.O.P.は正にその中心。
マイルス不在での1967年への回帰です。
80年代に入り、そこにウイントンが合流したのが最初の映像。
面白い巡り合わせですよね。
そんなウイントンを横目にマイルスが復帰。
ところが回帰しないのがマイルスです。
確かに復帰後のマイルスには引退直前の凄みはなかったけれど、
ファンクを進めつつ模索。
セレブとして世間の目にも応えつつ、
懐かしい同窓会もやってしまったけれど、
ヒップホップに着手していたというのがマイルスという男なのです。
あ~っ、ここまで来ていたのに、ジ・エンド。
私達はマイルスを失ってしまいました。合掌。
書いておきたいことがもう一つありました。
80年代中期のことです。
日本ではM.J.Q.(マンハッタン・ジャズ・クインテット)が大人気を博します。
このM.J.Q.というグループは、
メインストリーム回帰という点と
発想がフュージョン=売れ線狙いのアレンジ指向という点で
ジャズの形骸化の範となったグループだと私は思っています。
ある意味時代の申し子だったのです。
このM.J.Q.の売り出しにスイングジャーナル誌と中山康樹さんが
強く係っているという点は改めて指摘しておきます。
この辺りから日本のジャズジャーナリズムっておかしくなっていった気もします。
成れの果ての現在、中山さんが「かんちがい音楽評論」を出したのは、
過去の反省の上に立っているのかも?
と皮肉って本日の〆としましょう(笑)。
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