音楽評論家の中山康樹さんが亡くなりました。合掌
昨夜ツイッターのタイムラインを見ていたら気になるツイートが流れていました。中山さんを偲ぶような感じのものでした。まさかと思って ジャズ喫茶「いーぐる」 のbbs(掲示板)を見ると、中山康樹さんが亡くなったというマスター後藤雅洋さんのコメントが・・・。とても驚きました。
だってまだ若いでしょ。ここ数年はお会いしていませんでしたが、評論本は毎年何冊も出していましたし、体の具合が悪いという話も耳にしたことがなかったので、まさに寝耳に水です。あ~ぁっ、とても悲しいです。
「1月28日、悪性リンパ腫のため死去、62歳」、まだまだ若いのに。
私が中山さんの名前を初めて知ったのはスイングジャーナル誌の編集長をしていた頃(いやっ、まだ児山紀芳さんが編集長をしていたかも)今から30年以上前のことです。私はジャズを聴き始めて間もなくの頃で、スイングジャーナル誌はジャズ知識を得るための愛読雑誌でした。そこでの中山さんの評論は気になるものでした。
私が一番記憶しているのは「新伝承派」。当時アメリカのジャズ界に現れたウィントン・マルサリスを中心とするメインストリーム回帰路線の新人達を称したものです。私は中山さんが命名したものと勘違いしていましたが、現地で「New Traditionalists」と言われているのを中山さんが日本語に訳したものです。「新しい伝承に精通した人達 = 新伝承派」という訳です。当時のスイングジャーナル誌はアメリカのジャズ最前線を精力的に取材していました。
一方でジャズ喫茶のオヤジからは疑問視されたマンハッタン・ジャズ・クインテット(M.J.Q.)を日本で売り込もうと目論んだり(それは成功した)、中山さんが大好きだった(私も大好きだった)マイルス・デイヴィスの記事をご自分の取材を交えて積極的に紹介したり、私は中山さんが書くものを意識せずにはいられませんでした。
社会人になった私はスイングジャーナル誌を読むこともなくなってしまうのですが、そんな頃に出た本が『マイルスを聴け!』(初版)。マイルス大好きな私ですからすぐに買いました。読んで頷くこと多数。他の誰もが書かないエレクトリック・マイルスのアルバム評が特に新鮮でした。私がいいなあと思っていたことが多数活字になっていました。それまでレジー・ルーカスの刻むギターの快感のことを言う評論家はいなかったように記憶します。中山さんにとても親近感を覚えました。
文体の面白さにも引き込まれました。「ク~ッたまらん。」このセリフが出ると心の中で拍手しました(笑)。その文体のぶっ飛び具合が頂点に達したのがピーター・バラカンさんと市川正二さんとの共著本「ジャズ・ロックのおかげです」でしょう。ブログ嫌いの中山さんは近年オジサンブログの若作り文体に疑問を呈していましたが、この本での中山さんはまさにその若作り文体だと私は思っていて、評論家にあるまじきおふざけぶりと相まって、時代を遥に先取りしていた中山さんを今になって凄いと思いました。
中山さんを初めて見たのはジャズ喫茶「いーぐる」で行われた「マイルス『アガルタ』『パンゲア』録音後30年、大音量で聴く会」とかいう講演の時です。私が初めて「いーぐる」に行った時でもあります。その後「いーぐる」の連続講演に何度も行くようになり、後藤さんや皆さんと親しくしていただくようになります。そんな流れでどの講演なのか忘れましたが講演後に中山さんとお話する機会を得ました。
数年前には「いーぐる」で5回程開催された中山さんの「ジャズ・ヒップホップ学習会」に全回参加して、講演後の打ち上げでは色々お話を聴かせていただきました。その講演を経て出された「ジャズ・ヒップホップ・マイルス」においては、私が「ジャズ・ヒップホップ学習会」に関することを書いたブログを中山さんが読んで下さったのではないかと思われるような節があり、ブログ否定派の中山さんに多少なりとも私のブログの影響が及んだのなら嬉しいと思いました。まあ私の単なる思い込みかもしれませんが・・・。
この『ジャズ・ヒップホップ・マイルス』、何かおかしい気がするんだけれど説得されてしまうという、もう中山ワールド全開としか言いようがない本です。私はこの本のヒップホップを都合良く利用したようなところと、現代ジャズをまともに評価できていないところが気に入らないのですが、それでも面白い本だと思っています。この本の目的「ヒップホップファンをジャズファンに引き込む」は成功しなかったと思います。
最近私はジャズファンを増やすには地道にジャズの根本的な面白さを説くしか方法はないと思っています。これをやっているのは後藤雅洋さんくらいしか私には思い当りません。中山さんの試みは寺島靖国さんが既にやっていたジャズ初心者に向けたピアノトリオ推奨あるいはオーディオファンに向けたジャズオーディオ推奨と大差ないと思っています。最初は話題性もあり一時的にジャズファンが増えたような感じがするのですが、結局は飽きて大半が去ってしまうということになってしまいます。
それからこの本に触れておかないといけないですね。「かんちがい音楽評論」。昔から中山さんの発言には賛否が存在していたと思うのですが、それが極まったのがこの本だと思います。Amazonのカスタマーレビューがそれを象徴しています。こういう形で問題を提起し続けた中山さんの姿勢。私は評価します。それももう読めなくなってしまったなんて・・・。残念でなりません。
そんな中山さんに触れるにはこのコラムをリンクしておきましょう。
「音楽玉手箱 中山康樹」の「第11回 かわいい山中千尋さん:その1」
http://dot.asahi.com/musicstreet/column/ontama/2013081200007.html
その2、その3と続きます。
コラムは現在も進行中で最新更新は2月2日になっています。
中山さんは非常に多くの著書を出していてとても全部読めません。私はジャズ系の著書しか読んでいませんが、上記以外にもたくさん面白いものがありました。これからも機会があれば読んでいない著書を読みたいと思います。
中山さんのクールな立ち居振舞いはどこか私と似ているような気がして親近感を持っていました。その中山さんにもうお会いすることができないのは残念でなりません。謹んでお悔やみ申し上げます。
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tommyさんの書き込みを読んでいたら、岩崎峰子さんの著書『祇園の教訓』の中の一節を思い出しました。
引用します。
「舞のお稽古に限らず、邦楽のお稽古は師匠を真似ることから始まります。“自分”という個性を消すくらいに真似をするのは精神修養のように厳しいものです。しかし、消したはずの個性が消えるものではありません。同じ師匠の型を徹底的に真似しても、私の舞と別のお弟子さんの舞は違います。」
そうなんです。
自分を消し去って、消し去って、消し去っても、なおも残るもの。にじみ出るもの。それが個性。オリジナリティ。
最近では、「自分探し」「自分らしさ」を優先させる風潮ですし、槇原敬之が作ってSMAPがヒットさせた《世界に一つだけの花》の歌詞を額面通り受け止めた「オンリー・ワン」志向の人も多いと思うのですが、私はその風潮は良い面もあるけど、悪い面もあると思うのです。
良い面とは、すなわち自信のない人にも、
「そんなキミにだって、キミだけにしかないイイところがあるはずなんだから!」
と、勇気と希望を与えてくれた、かも?しれないということ。
悪い面とは、まだ確固とした「自分」すらも持っていないヒヨッコに「オレが、オレが」な気分を増長させかねない(笑)。
一口に「オリジナリティ」とか「自分らしさ」って簡単に言うかもしれないけど、それを得るためには莫大な努力が必要なんだよ、と私は思うほうです。
音楽に言えば、まさにコピーがその出発点だと思います。
パウエル派、パーカー派というように、やっぱりキャリア初期には、彼らジャイアンツに「私淑」するところから表現をスタートさせていったジャズマンは多い。
自分の表現の確立とは、まずはコピーからスタートし、範となる表現内容と、自身の表現内容との差異に自覚的になることにほかならない、と私は感じています。
この差異の自覚こそが、「守破離」における「破」のレベルに達した段階であり、思い込みや盲目的な根拠なき自信は、オリジナリティ以前に「裸の王様」、あるいは、「井の中の蛙」レベルに他ありません。
あ、「守破離」に関しては、
▼コチラ
http://cafemontmartre.jp/essay/1999/arube.htm
でも説明していますので、是非読んでいただくとして(笑)。
最近思うんだけど、
やっぱり、「私淑」って大事だと思うんですよね。
表現活動のもっとも原初的なモチベーションは「私淑」だと思う。
一流ミュージシャンは皆、過去の偉大なアーティストに敬意を払っているし、若い頃は「私淑」している音楽家の一人や二人はいた。たとえば、表現内容はまったく違いますが、チック・コリアなんて、『アメイジング・バド・パウエル』のレコードにあわせて、最初から最後までピアノをそっくりに弾けるほど練習したそうです。
マーカス・ミラーも『ジャコ肖像』をレコードプレイヤーに乗せっぱなしだったそうですし。
こうして、先人の知恵とワザを吸収し、まったく違う音楽性を持つ次の世代の大物が登場するわけです。
過去のミュージシャンの表現をコピーしてゆこう、盗んでゆこうという意気込みがないと、表現力もそこで止まっちゃうような気がしてなりません。
ところで、先日(といっても1年以上前に)、あるジャムセッションで、パーカッションが上手な女の子に会ってお話したんだけど、
「好きなミュージシャンは?」
「いません、あまり知りません」
「ふだんはどういう音楽聴いてるの?」
「うーん、音楽あまり聴いてない。CDとか持ってないし」
「じゃあなんでパーカッションやってるの?」
「先生が好きだから。先生、上手だから」
みたいな会話になりました。
自分探しをしていて、たまたま知り合った人物がプロのパーカッショニスト。その方の「人柄に惚れて」弟子になり、手ほどきを受け、上達していったそうなのです。
聴くのは先生の音楽だけで、パーカッションのはいった音楽はほとんど聴いたことがないし、興味がない。
でも、パーカッションを触るのは大好き。よって、上達も早い。だからジャムセッションで知らない曲に初参加しても、そこそここなせてしまう。音楽が好きかというと、正直わからない。でも、楽器は好き。
この子のようなタイプの若い楽器奏者、最近増えているような気がしないでもありません。音楽好きではなく、楽器好きのタイプ。
こういうタイプのプロが増えたら、音楽、どう変わってゆくのかなー、なんて思いながら会話をしていた記憶があります。
いや~っ、こんな長~いコメントを書いて下さるのは雲さんだけです(笑)。
で、内容が面白い!
『祇園の教訓』からの一節から「守破離」へと、なるほどなるほど。
「守破離」に関する雲さんの説明がこれまた非常に面白いんです。
皆さん。必読であります。
パーカッションが上手な女の子。
音楽を演奏するための手段(楽器)が目的になっちゃっう例ですね。
私の身近な所では、音楽を聴くための手段(オーディオ)が目的になっちゃっう例。
音楽を聴く方にはずっと前から起きていた現象が、
音楽をやる方にも起きつつあるというのは面白いです。
私も含めオーディオファンは、音楽ファンから白い目でみられているような
気がしますが、楽器好きの人も白い目で見ないといけないのかなっ?
これはちょっと皮肉ですが(笑)。
手段が目的のプロのミュージシャンが増えたらどうなっていくのか?
私も興味意が湧いてきました。
*
tommyさんからもコメントをいただきました(笑)。
どうもありがとうございます。
こちらへ転載します。
自分にオリジナリティが出るまで、コピーし続けるって大変なエネルギーなんですよね。んで、そのエネルギーこそが創造するマインドなんだけど。
これはデザインの世界でも同じなんですが、新人は「自分の好きなようにデザインさせて貰える」と思って入社してくるのですが、最初は先輩に指示されたものをちゃんと作ることからはじまるのです。で、これが耐えられない(笑)。それを学びの時間だと理解できないんですよ。
「先輩と同じ事をやっても、クリエイティブではない」と勝手に決めてしまう。「創造性とは生まれながらにして、自分が持っている資質」だと理解したいようです(笑)。
最近は「才能」というのが、以前より気になる若者が多いようです。「才能がないなら、やっても仕方ない」から、早く見極めたいという事のようです。
オイラは「才能があるかないか」考えた事はないです(笑)。十代の頃から、デザインを仕事にするために生まれてきたと思い込んでいますからね(笑)。
「できないことは、身につくまでコピーして学べばよい」は、当然の事なんだけどなぁ〜。
その行為自体が、その人を育てるツーのが軽視されていますね。
オイラが仕事のために覚えてきた事って、音楽の修業に似ているところがあって、殆どの事はマインドとしては理解しているのですが、いざ楽器を持ってやってみると、デザインをやっている時とは同じテンポで進まないから、アタマにくるし、不甲斐ないなぁ〜って思う(笑)。音楽をするマインドは分っているんだけどねぇ〜実力が伴わない。実践がないと、練習だけだとダメかも?(笑)
デザインの世界にもコピーは重要なのですね。
で、私も「才能」についてはあまり考えたことはありません。
サラリーマンは仕事をやっていく上でいちいち才能なんて考えません。
まずは目の前にある仕事をこなすことが要求されるわけです。
そして仕事を上手くこなせれば、それが自分の才能だと思いこみます(笑)。
そんなのでは、クリエイティブじゃない気がするので、
私の場合は社内で誰もやったことがないような新しい製品に次々と
首を突っ込んできました。
ということは、私も「先輩と同じ事をやっても、クリエイティブではない」の口(笑)?
まっ、それはそれとして、新しいことをやるには大きなエネルギーが必要です。
tommyさんの楽器のことについてですが、
率直に言わせていただくと、そこに才能との関連があるのかも?
失礼致しました。
とまあ、気ままなことを言わせていただきました。