面白いコメントをいただきました。
昨日のミュージックバード「PCMジャズ喫茶」の記事に
ジャズ友の 雲さん と tommyさん から面白いコメントをいただきましたので、
こちらに転載させていたできます。
雲さんからのコメント。
>ミュージシャンに1、2曲指定してあとはアルバムの雰囲気などを話した上で選曲を任せるんだとか。
なんだ、全曲指定してるんじゃなかったんだ、と思いました(笑)。
>モードも出来てビ・バップも出来る幅の広さが必要。
たしかにそうかもしれませんが……。
ま、そのほうが、送り手としても、「今度はバップ」「今度はモード」と「売るための」キーワードを立てやすいとは思いますし、聴き手の気分もそうなのかもしれませんが、「バップ」も「モード」も、そんなに底の浅いものなんだろうか?とボクは思うわけよ(笑)。
バップにいったり、モードにいったり。
そういうミュージシャンもいるし、たしかにバップもモードもいまや「手法」は「学習」できる世の中なんだけどさ、でも、表現の深さとかは、また別な次元の話なんじゃないかな?と思うわけです。
こういう話聞くと、今こそ、コルトレーンになりきれなかった、だけどコルトレーン・モードを真摯に追求したビリー・ハーパーを聴け!と思っちゃったりするわけ(笑)。
音楽を聴いたときの感動は、手法や切り口のみで測れる浅薄なものではないと信じたい。
もちろん、レビューを書いたり、ジャズ仲間と話し合ったりするときには、「モード」とか「バップ」とかは便利な言葉だし、コミュニケーションが成立する最低限の共通認識ではあるけど、大事なことは、その先にある表現に対して、自分はどう感じたか、どう感動したか、なのだと思う。
ま、ここの部分が一番難しくて、オフコースじゃないけど、♪言葉にできない 部分ではあるんですけどね……。
だからこそ、この「言葉にできない」部分をうまく表現できる評論家、批評家よ、もっと現れてくれ~!と思うわけです。そういう人から、私は色々学びたいし、盗みたい(笑)。
雲さんの意見に私も同感です。
賛同するだけになってしまい、雲さんには申し訳ありませんが、
私の言いたいことが含まれているだけでなく、
さらに一歩進んで見ているところに拍手です!
*
tommyさんからのコメント。
先日、池ちゃん先生と話していたら、最近の若いミュージシャンがコピーがヘタだと言っていました。それからハービー、チック、キース以前のピアニストを真剣に聴いていないとも、古くてもエバンスまでかな?なんて話題になって、完全コピー譜面の功罪の話にもなりました。
「もっと耳で盗まないとね」というのが結論です。
これも興味深いご意見です。
今や楽譜を見て頭でコピーする時代なんでしょうね。
大学レポートや読書感想文でのネットからのコピペ問題からわかるように、
安易にコピーできる時代の問題なのかもしれませんね?
昔のコピーって結構手間がかかって大変でしたよねっ。
単にコピーするといっても、体に負担がかかっていたように思います。
そうなると単なるコピーでも体に入ってきたような気がするんです。
今の人は体でコピーできないんだと思います。
それから”盗む”というのも体で覚えることだと思います。
よく会社の先輩から「先輩から仕事のやり方を盗んでなんぼ。」と言われました。
まずは見よう見真似で体で覚えろということでした。
見て真似するのって結構大変ですよね。
ぼーっと見ていても真似なんてできないものです。
最近の若い人がこの手のことをできなくなりつつあるというのは怖い気がします。
>古くてもエバンスまでかな?
ということはパウエルやモンクとかは真剣に聴かないということですよね。
こちらについてはやっぱり時代なのかなっ?と思いました。
若い人にはパウエルやモンクって離れすぎているのかも?
私がスイングにほとんど興味がないのと同じような感じかも?
せいぜい40年くらい前までしかカッコいいと思えないのかもしれませんよ?
*
お2人からはいつも色々インスパイアされます。
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コメント
tommyさんの書き込みを読んでいたら、岩崎峰子さんの著書『祇園の教訓』の中の一節を思い出しました。
引用します。
「舞のお稽古に限らず、邦楽のお稽古は師匠を真似ることから始まります。“自分”という個性を消すくらいに真似をするのは精神修養のように厳しいものです。しかし、消したはずの個性が消えるものではありません。同じ師匠の型を徹底的に真似しても、私の舞と別のお弟子さんの舞は違います。」
そうなんです。
自分を消し去って、消し去って、消し去っても、なおも残るもの。にじみ出るもの。それが個性。オリジナリティ。
最近では、「自分探し」「自分らしさ」を優先させる風潮ですし、槇原敬之が作ってSMAPがヒットさせた《世界に一つだけの花》の歌詞を額面通り受け止めた「オンリー・ワン」志向の人も多いと思うのですが、私はその風潮は良い面もあるけど、悪い面もあると思うのです。
良い面とは、すなわち自信のない人にも、
「そんなキミにだって、キミだけにしかないイイところがあるはずなんだから!」
と、勇気と希望を与えてくれた、かも?しれないということ。
悪い面とは、まだ確固とした「自分」すらも持っていないヒヨッコに「オレが、オレが」な気分を増長させかねない(笑)。
一口に「オリジナリティ」とか「自分らしさ」って簡単に言うかもしれないけど、それを得るためには莫大な努力が必要なんだよ、と私は思うほうです。
音楽に言えば、まさにコピーがその出発点だと思います。
パウエル派、パーカー派というように、やっぱりキャリア初期には、彼らジャイアンツに「私淑」するところから表現をスタートさせていったジャズマンは多い。
自分の表現の確立とは、まずはコピーからスタートし、範となる表現内容と、自身の表現内容との差異に自覚的になることにほかならない、と私は感じています。
この差異の自覚こそが、「守破離」における「破」のレベルに達した段階であり、思い込みや盲目的な根拠なき自信は、オリジナリティ以前に「裸の王様」、あるいは、「井の中の蛙」レベルに他ありません。
あ、「守破離」に関しては、
▼コチラ
http://cafemontmartre.jp/essay/1999/arube.htm
でも説明していますので、是非読んでいただくとして(笑)。
最近思うんだけど、
やっぱり、「私淑」って大事だと思うんですよね。
表現活動のもっとも原初的なモチベーションは「私淑」だと思う。
一流ミュージシャンは皆、過去の偉大なアーティストに経緯を払っているし、若い頃は「私淑」している音楽家の一人や二人はいた。たとえば、表現内容はまったく違いますが、チック・コリアなんて、『アメイジング・バド・パウエル』のレコードにあわせて、最初から最後までピアノをそっくりに弾けるほど練習したそうです。
マーカス・ミラーも『ジャコ肖像』をレコードプレイヤーに乗せっぱなしだったそうですし。
こうして、先人の知恵とワザを吸収し、まったく違う音楽性を持つ次の世代の大物が登場するわけです。
過去のミュージシャンの表現をコピーしてゆこう、盗んでゆこうという意気込みがないと、表現力もそこで止まっちゃうような気がしてなりません。
ところで、先日(といっても1年以上前に)、あるジャムセッションで、パーカッションが上手な女の子に会ってお話したんだけど、
「好きなミュージシャンは?」
「いません、あまり知りません」
「ふだんはどういう音楽聴いてるの?」
「うーん、音楽あまり聴いてない。CDとか持ってないし」
「じゃあなんでパーカッションやってるの?」
「先生が好きだから。先生、上手だから」
みたいな会話になりました。
自分探しをしていて、たまたま知り合った人物がプロのパーカッショニスト。その方の「人柄に惚れて」弟子になり、手ほどきを受け、上達していったそうなのです。
聴くのは先生の音楽だけで、パーカッションのはいった音楽はほとんど聴いたことがないし、興味がない。
でも、パーカッションを触るのは大好き。よって、上達も早い。だからジャムセッションで知らない曲に初参加しても、そこそここなせてしまう。音楽が好きかというと、正直わからない。でも、楽器は好き。
この子のようなタイプの若い楽器奏者、最近増えているような気がしないでもありません。音楽好きではなく、楽器好きのタイプ。
こういうタイプのプロが増えたら、音楽、どう変わってゆくのかなー、なんて思いながら会話をしていた記憶があります。
投稿: 雲 | 2009年9月 6日 (日) 08時44分
あ、漢字誤変換
>過去の偉大なアーティストに経緯を払っているし、
→敬意 でした(汗)
投稿: 雲 | 2009年9月 6日 (日) 08時47分
雲さん。こんにちは。
これまたロング・コメントありがとうございます(笑)。
ほんと、考えさせられます。
これも後ほどブログ記事としてUPさせていただきます。
投稿: いっき | 2009年9月 6日 (日) 15時52分