ドルフィーのバスクラ、濃いテーマですよね~!
今日の「高野 雲の快楽ジャズ通信」は
「エリック・ドルフィー特集~バスクラリネット編」。
詳細は 「快楽ジャズ通信」 をご覧下さい。
今回で放送開始から1年経ちました。
おめでとうございます!
第1回目の放送は雲さんの緊張が手に取るようにわかり、
思わず正座して聴いていた私もドキドキでした(笑)。
1年経ちましたよ~。
感無量でございます。
今年最初の放送にゲスト出演させていただいたり、
放送では毎度色々教えていただいたりで、
感謝しています。
さて、本日の放送。
最初はディレクター嬢からドルフィーのプロフィール紹介がありました。
ディレクター嬢、優しい声ですよね~。いいです(笑)。
<書き忘れがありましたので追記します。9/28>
アルバム『ラスト・デイト』に入っているドルフィーの言葉
"When you hear music, after it's over, it's gone in the air.
You can never capture it again. "
をディレクター嬢が読んでくれました。
これがなかなか良かったのです。
きれいな声で読むとカッコいいんですよっ!
雲さんはジャズマンの中でドルフィーが一番好きだとか。
ドルフィー参加のアルバムはほとんどもっているとのこと。
ドルフィーはアルトサックス、フルート、バスクラリネットを演奏します。
チャーリー・パーカーをパワーアップしたアルト、優雅なフルート、
そしてもっとも生々しいのがバスクラです。
ドルフィーの本能に近く、最も適していた楽器なのではないかとのことです。
バスクラの特徴は高音の艶かしい美しさとドスの効いた攻撃力のある低音。
ちなみに、私が持っているアルトサックス奏者のリーダーアルバムの枚数では、
ペッパー、マクリーンに次ぐ3番目がドルフィーです。
最初はバスクラのインパクトのある低音を味わう曲。
『ラスト・デイト』から《エピストロフィー》。
テーマ部、バスクラのちょっととぼけた感じがモンクの曲にマッチ。
ソロになると一転アグレッシブになります。
個性的なアドリブ・ラインはどこからくるんでしょう?
そのアドリブがバスクラによって更に際立つ感じです。
好き嫌いがわかれるんでしょうね~これ。
私は好きですよ、ドルフィーのバスクラ。
くるものがありますよねっ。
ミシャ・メンゲルベルグのピアノがまたユニーク。
ベースもドラムもなかなかやってくれます。
凄い人達ですよ。
(以降緑字は曲を聴いての私の感想などです。)
6月2日録音って、それ私の誕生日です(笑)。
モンクのピアノを重く陰鬱にした感のじミシャのピアノが良いと雲さん。
ドルフィーはモンクとやりたかったが願い適わず。
モンクに影響を受けたミシャとの相性は抜群とのことです。
雲さんはこの曲の最初の”ブヒブヒ”にやられたんだとか(笑)。
冒頭はインパクトがあるものだったので、次はもう少し聴きやすいもの。
『アウト・ワード・バウンド』から《オン・グリーン・ドルフィン・ストリート》。
こちらはテーマ部でのバスクラの高音の厚みがある伸びやかな音色が魅力です。
ハード・バップの枠組みを踏襲しつつも新しさを加えています。
いわゆるハード・バップ色の濃い演奏ですよねっ。
バスクラの斬新さとオーソドックスなハード・バップとの融合。
こういうところがドルフィーならではで面白いんです。
バスクラをちゃんと使いこなしてマッチさせているから凄い。
フレディ・ハバードのミュートもカッコいいです。
ジョージ・タッカーの”ツンツン”ベースも気持ち良し。
オリバー・ネルソンの『ストレート・アヘッド』から《イメージズ》。
バスクラがアンサンブルに溶け込み異様かつ音に色彩感覚をもたらしています。
アレンジの妙、音色の妙を聴きましょう。
確かに雲さんの言うとおりでテーマから独特な感じです。
ネルソンの曲が妖艶な曲なので合いますねっ。
妙にそそられる曲(笑)。
ネルソンとドルフィーのマッチング、なかなかやってくれます。
こういう曲を選曲する雲さん、さすが鋭いところを突いてきますね~。
同じような理由でこちらもドルフィーがサイドマンとして参加。
アンドリュー・ヒルの『ポイント・オブ・デパーチャー』から《デディケーション》。
前の曲よりもうちょっとセンチメンタルで叙情的。
ある意味グロテスクな感じもします。
ブルーノート・レーベルの精鋭揃いのアルバムです。
ヒルのクールに燃える世界。
ドルフィーのソロは曲にマッチしていますねっ。
ヒルのピアノ・ソロ、いや~っ、美しい!
ジョー・ヘンダーソンのテナー・ソロがこれまたクール!
新主流派の美的世界なんですよね~、これっ。
新主流派を寒々しいと言う某氏がいます。
私は氏の美的感覚を疑いつつあります(笑)。
曲が終わった後で雲さんは美しい良い曲だと言います。
ドルフィーのバスクラがアンサンブルに良い色づけをして、かつ存在感もあります。
ドルフィーのバスクラといえばこれ。
チャールズ・ミンガスの『ミンガス・プレゼンツ・ミンガス』から《ホワット・ラブ》。
ミンガスとの楽器と楽器の音の会話を聴く曲。
演出臭さがあるかもしれないけれど面白い。
ミンガスがベースで「行くなよ。」と言い、
ドルフィーがバスクラで「やだ、行くんだ行くんだ。」と言っている。
という人がいるんだとか(笑)。
スリリングで咆哮する生々しさも聴いて下さい。
私このアルバムのB面はあまり聴かなかったです(笑)。
確かにこの会話面白いかも?
なるほどそういう聴き方をすれば面白いんですね~。
今まではあまり面白いと思わなかったのでちょっと発見!
<アフター・アワーズ編>
『アウト・トゥ・ランチ』から《ハット・アンド・ベアード》をB.G.M.にしてトーク。
雲さんは《ハット・アンド・ベアード》のバスクラの最初の音にやられたとか。
1964年の録音です。新幹線が開通。東京オリンピックの年。私は1歳でした。
オリンピックの放送を見て私が「旗、旗。」と言って喜んだという話を
親から聞いたことがあります。
こんな年にこんな進んだ音楽が録音されたのは凄いという話。
確かにそう思います。
次回から「快楽ジャズ通信」は2年目に突入です。
雲さん。これからも面白い番組をよろしくお願いします!
<追伸>
雲さんのブログにコメントされている「おっちん」さん。
拙ブログもお読みいただいているとのこと、嬉しいです。
どうもありがとうございます。
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tommyさんの書き込みを読んでいたら、岩崎峰子さんの著書『祇園の教訓』の中の一節を思い出しました。
引用します。
「舞のお稽古に限らず、邦楽のお稽古は師匠を真似ることから始まります。“自分”という個性を消すくらいに真似をするのは精神修養のように厳しいものです。しかし、消したはずの個性が消えるものではありません。同じ師匠の型を徹底的に真似しても、私の舞と別のお弟子さんの舞は違います。」
そうなんです。
自分を消し去って、消し去って、消し去っても、なおも残るもの。にじみ出るもの。それが個性。オリジナリティ。
最近では、「自分探し」「自分らしさ」を優先させる風潮ですし、槇原敬之が作ってSMAPがヒットさせた《世界に一つだけの花》の歌詞を額面通り受け止めた「オンリー・ワン」志向の人も多いと思うのですが、私はその風潮は良い面もあるけど、悪い面もあると思うのです。
良い面とは、すなわち自信のない人にも、
「そんなキミにだって、キミだけにしかないイイところがあるはずなんだから!」
と、勇気と希望を与えてくれた、かも?しれないということ。
悪い面とは、まだ確固とした「自分」すらも持っていないヒヨッコに「オレが、オレが」な気分を増長させかねない(笑)。
一口に「オリジナリティ」とか「自分らしさ」って簡単に言うかもしれないけど、それを得るためには莫大な努力が必要なんだよ、と私は思うほうです。
音楽に言えば、まさにコピーがその出発点だと思います。
パウエル派、パーカー派というように、やっぱりキャリア初期には、彼らジャイアンツに「私淑」するところから表現をスタートさせていったジャズマンは多い。
自分の表現の確立とは、まずはコピーからスタートし、範となる表現内容と、自身の表現内容との差異に自覚的になることにほかならない、と私は感じています。
この差異の自覚こそが、「守破離」における「破」のレベルに達した段階であり、思い込みや盲目的な根拠なき自信は、オリジナリティ以前に「裸の王様」、あるいは、「井の中の蛙」レベルに他ありません。
あ、「守破離」に関しては、
▼コチラ
http://cafemontmartre.jp/essay/1999/arube.htm
でも説明していますので、是非読んでいただくとして(笑)。
最近思うんだけど、
やっぱり、「私淑」って大事だと思うんですよね。
表現活動のもっとも原初的なモチベーションは「私淑」だと思う。
一流ミュージシャンは皆、過去の偉大なアーティストに敬意を払っているし、若い頃は「私淑」している音楽家の一人や二人はいた。たとえば、表現内容はまったく違いますが、チック・コリアなんて、『アメイジング・バド・パウエル』のレコードにあわせて、最初から最後までピアノをそっくりに弾けるほど練習したそうです。
マーカス・ミラーも『ジャコ肖像』をレコードプレイヤーに乗せっぱなしだったそうですし。
こうして、先人の知恵とワザを吸収し、まったく違う音楽性を持つ次の世代の大物が登場するわけです。
過去のミュージシャンの表現をコピーしてゆこう、盗んでゆこうという意気込みがないと、表現力もそこで止まっちゃうような気がしてなりません。
ところで、先日(といっても1年以上前に)、あるジャムセッションで、パーカッションが上手な女の子に会ってお話したんだけど、
「好きなミュージシャンは?」
「いません、あまり知りません」
「ふだんはどういう音楽聴いてるの?」
「うーん、音楽あまり聴いてない。CDとか持ってないし」
「じゃあなんでパーカッションやってるの?」
「先生が好きだから。先生、上手だから」
みたいな会話になりました。
自分探しをしていて、たまたま知り合った人物がプロのパーカッショニスト。その方の「人柄に惚れて」弟子になり、手ほどきを受け、上達していったそうなのです。
聴くのは先生の音楽だけで、パーカッションのはいった音楽はほとんど聴いたことがないし、興味がない。
でも、パーカッションを触るのは大好き。よって、上達も早い。だからジャムセッションで知らない曲に初参加しても、そこそここなせてしまう。音楽が好きかというと、正直わからない。でも、楽器は好き。
この子のようなタイプの若い楽器奏者、最近増えているような気がしないでもありません。音楽好きではなく、楽器好きのタイプ。
こういうタイプのプロが増えたら、音楽、どう変わってゆくのかなー、なんて思いながら会話をしていた記憶があります。
いや~っ、こんな長~いコメントを書いて下さるのは雲さんだけです(笑)。
で、内容が面白い!
『祇園の教訓』からの一節から「守破離」へと、なるほどなるほど。
「守破離」に関する雲さんの説明がこれまた非常に面白いんです。
皆さん。必読であります。
パーカッションが上手な女の子。
音楽を演奏するための手段(楽器)が目的になっちゃっう例ですね。
私の身近な所では、音楽を聴くための手段(オーディオ)が目的になっちゃっう例。
音楽を聴く方にはずっと前から起きていた現象が、
音楽をやる方にも起きつつあるというのは面白いです。
私も含めオーディオファンは、音楽ファンから白い目でみられているような
気がしますが、楽器好きの人も白い目で見ないといけないのかなっ?
これはちょっと皮肉ですが(笑)。
手段が目的のプロのミュージシャンが増えたらどうなっていくのか?
私も興味意が湧いてきました。
*
tommyさんからもコメントをいただきました(笑)。
どうもありがとうございます。
こちらへ転載します。
自分にオリジナリティが出るまで、コピーし続けるって大変なエネルギーなんですよね。んで、そのエネルギーこそが創造するマインドなんだけど。
これはデザインの世界でも同じなんですが、新人は「自分の好きなようにデザインさせて貰える」と思って入社してくるのですが、最初は先輩に指示されたものをちゃんと作ることからはじまるのです。で、これが耐えられない(笑)。それを学びの時間だと理解できないんですよ。
「先輩と同じ事をやっても、クリエイティブではない」と勝手に決めてしまう。「創造性とは生まれながらにして、自分が持っている資質」だと理解したいようです(笑)。
最近は「才能」というのが、以前より気になる若者が多いようです。「才能がないなら、やっても仕方ない」から、早く見極めたいという事のようです。
オイラは「才能があるかないか」考えた事はないです(笑)。十代の頃から、デザインを仕事にするために生まれてきたと思い込んでいますからね(笑)。
「できないことは、身につくまでコピーして学べばよい」は、当然の事なんだけどなぁ〜。
その行為自体が、その人を育てるツーのが軽視されていますね。
オイラが仕事のために覚えてきた事って、音楽の修業に似ているところがあって、殆どの事はマインドとしては理解しているのですが、いざ楽器を持ってやってみると、デザインをやっている時とは同じテンポで進まないから、アタマにくるし、不甲斐ないなぁ〜って思う(笑)。音楽をするマインドは分っているんだけどねぇ〜実力が伴わない。実践がないと、練習だけだとダメかも?(笑)
デザインの世界にもコピーは重要なのですね。
で、私も「才能」についてはあまり考えたことはありません。
サラリーマンは仕事をやっていく上でいちいち才能なんて考えません。
まずは目の前にある仕事をこなすことが要求されるわけです。
そして仕事を上手くこなせれば、それが自分の才能だと思いこみます(笑)。
そんなのでは、クリエイティブじゃない気がするので、
私の場合は社内で誰もやったことがないような新しい製品に次々と
首を突っ込んできました。
ということは、私も「先輩と同じ事をやっても、クリエイティブではない」の口(笑)?
まっ、それはそれとして、新しいことをやるには大きなエネルギーが必要です。
tommyさんの楽器のことについてですが、
率直に言わせていただくと、そこに才能との関連があるのかも?
失礼致しました。
とまあ、気ままなことを言わせていただきました。